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画 家 上 田 薫
うえだ かおる
1928生 相模原市上溝在住 東京都出身。1954年 東京芸術大学油画科
卒業。
1956年にアメリカのMGM社ポスターコンクールでグランプリを獲得。その後の約10年間は、グラフィックデザイナーとして活躍し、デザイン会社を設立。
1970年に描いた「貝殻」をきっかけに、スーパーリアリズムと呼ばれる、写真のようなリアルな画風で世に知られるようになる。
1992年より、山野美容芸術短期大学にて教鞭を取る。
現在、市内の自宅兼アトリエにて妻(キルト作家の上田葉子氏)との二人暮らし。
| 人に何か主張しよう訴えようなんて、自分にはおこがましい。作品を見てどう感じるかはその人に任せればいいんだ、と思ったんです。 |

「なま玉子Q」 162.0×130.3cm
キャンパス・油彩 1981 相模原市蔵

「ska D」 215.0×162.0cm
キャンパス・油彩 2000
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割られた殻からトロリと落ちる玉子の絵を、一度は見た覚えがあるのでは。この作品の産みの親・上田薫さんの展覧会(上田薫展
― 自然 その一瞬の輝き)が現在、相模原市民ギャラリーで開催中だ。
「人間としての意識が生まれた頃から、絵を描いていました」
学校では絵を描く時間と弁当の時間だけが楽しみ。何とかサボろうとして体温計を火鉢で温めて、水銀を落としたことも「3回は、あったかな」と、いたずらっ子のような目で話す。家族の中では、画家は「アウトロー」的な職業という扱いだった。目指していた医大受験に失敗し浪人しようと決めていた時、敬愛する美術史家の富永惣一氏に「君は絵がうまいんだから芸大に進学してはどうか」と薦められ、東京芸術大学に進むことにした。
◆ デザイナーとして
卒業後の56年に、アメリカのポスターコンクールでグランプリを獲得。仕事の依頼が来るようになったので会社を設立し、約10年間はグラフィックデザイナーとして忙しい日々を送った。その間は全く絵を描かなかった。
「『描くのを辞めよう』とか『描かなければ』というような気負いはなかったです。そういう気持ちで描いても、良いものは生まれなかっただろうし、実際忙しくて…」。
再び絵を描き始めたきっかけについても、
「10年間デザインやってきたし、もういいかな(笑)」。
絵を描くことが、呼吸するのと同じように当たり前だからだろうか。一度離れても自然と描くところに、上田さんは帰ってきた。
◆ 「貝殻」から水、空へ
70年に油彩で描いた貝殻。黒っぽいテーブルの上に置かれた巻貝。
「つまんねぇなぁ、って思ったんです(笑)」
自身の中で自問自答が始まった。
― 何故、貝を描いたのか。この絵でお前は貝について何を物語っているのか
「これは貝である、ということだけは人に伝えられる」
― だったら貝だけを描けばいいじゃないか。テーブルだとかは余計な物だ
「それじゃあ図鑑と同じじゃないか」
― 同じでいいじゃないか
反論すると、もう一人の自分はそう答えた。
それから、落下する生玉子やガラス、金属質なものや液体など、物体そのものだけが描かれたリアルな作品が生み出されてきた。90年代はきらめく水面、2000年になってからは空へと題材は変化したが、目に映るもの・現象を、ありのままに捉え描く上田さんの姿勢は変わらない。
人は誰しも常に自分の「常識」や固定観念、先入観に囚われ、ともすればそれは「偏見」にもなり得る。
上田さんの絵を見て私たちが強烈なインパクトを受けるのは、自分のフィルターを取り払って見ることができ、一人一人が新たな発見や新鮮な感動をおぼえるからだろう。

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