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画家であり、歌人・俳人でもある
吉川 啓示
よしかわ けいじ 1910年生まれ
相模原市上溝在住。
片野湘雲画伯、後に前田青邨画伯に師事。23歳の時、徒歩で京都まで歴遊し写生に精進する。その後警察官となるが、応召を受け満州・フィリピンなどを転戦。戦後、警察職に復帰し日本画制作にも意欲的に取り組むみ、院展には計61回の入選を数える。現在は画業と短歌・俳句の創作のかたわらあじさい大学講師を務めるなど精力的に活動されている。著書・画集に『思いつくままに』(相模経済新聞社刊)、『奥の細道をたずねて』(株式会社ハシモトコーポレーション刊)など多数。
| 短歌は思想だね。絵もそうだよ。感動したままを、本当の心を出すってこと。 |


奥の細道をたずねて ―絵と短歌―
吉川 啓示著 2003年3月31日発行
発行 橋本コーポレーション
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94歳―。画歴はすでに76年を越えた。激動の時代を生き抜き、挫折も多くあった。けれど、その時々に良き出会いがあった。「何かやってないと死んじまうよ」と笑い飛ばす吉川さん。その歩みを決して止めない。
小学校の時、算数でつまづいた吉川さんは「自分はダメだ」と思いこんでしまったという。ところが、高等科1年(今の中学1年)の時、図画で描いた芍薬の絵を「手本より生き生きとしている」と担任の先生に誉められる。「俺にも絵が描けるんだ」という自信が、劣等生だった吉川さんの心に生まれた瞬間だった。高等科では、短歌を校内誌に投稿し受賞するなど、のちに歌人となる才能の片鱗も垣間見せた。
◆ 遊歴 徒歩で京都へ
高等小学校を卒業し農業に励みながらも、古典文学を読むなど自分を磨くことも忘れなかった。青年団の駅伝に出場して区間賞をとる活躍もあった。しかし、農村の不況は厳しく、打ちのめされようとしていた時に片野湘雲画伯と出会い、絵の世界に光明を見い出す。「絵は描く人の人柄があらわれる。心を磨きなさい。心を磨くには多くの人と接することが大切で昔の画家の多くは遊歴といって絵筆1本で世を渡りつつ心を磨いた」 先生の言葉に心が奮い立ち「とにかく行こう。歩いて京都まで行こう」と決意、28kgものリュックを背負い出発した。
自分の誠意と努力で人と接し、人間同志の理解によって旅をしたい。身分証明書と紹介状を頼りに野宿無しで2府9県、7ヵ月の行程を乗り切った。
昭和初期の娯楽も情報も少なかった山村で、画学生の旅物語に膝を乗り出して聞き入り、心躍らせた人も多かったことだろう。
◆ 再出発は警察官
旅を終えた吉川さんは24歳になっていた。生活力もなく、将来に不安を感じていたが、警察官募集のポスターを見て一念発起し、苦手な数学を中心に猛勉強し4ヵ月後の試験でトップ合格した。
27歳で結婚。順調に昇進するが、警部補になる前日応召を受ける。その後満州や激戦のフィリピンを転戦することとなるが、スケッチブックや短歌ノートなどは手放さなかった。帰国してみれば、7年の不在の間に同僚たちは警部になっていた。「俺は巡査部長のまま」。焦りもあった。
◆ 『自分の仕事』を残そう
初心に帰って絵を描き始めるが、横山大観率いる院展に出品しても落選の連続。失意の中、東京駅の丸ビル前広場をさまよっていた時、ふと見上げたビルのそれぞれの窓にそれぞれの表情があるのに感動した。「これだ!」と思った。それまでの花鳥画をやめ、『ビルの窓』で新制作派展に入選。翌年ついに院展に『アパート』で入選。独創性が評価された。出品し続けて6年目、43歳だった。
昭和60年、秋の院展入選30回記念展の際、並べられた自分の絵を見て「私の時代は終わった」と感じたそうだ。 「これからは自分の仕事を残していこう」と、筆でのスケッチを再開。「これこそ私の絵だ」と確信する。鉛筆と違って筆は一発勝負だが、その迷いのない筆運びは、著作『奥の細道をたずねて』などに発揮されている。
仕事をこなすには体を守ることも大事。毎日40分の昼寝をかかさずに、生きがいでもある10の絵画グループでの指導や警察OB向け冊子『警親』の編集、俳句・短歌の創作と多忙な毎日を過ごしている。
作家独特の、乱雑だが静謐な画室。製作中の大作、紅梅白梅の屏風絵の前で短歌を一首詠んでくれた。
走りゆく自動車(くるま)を追いて
舞い上がる
桜吹雪の 終(つい)の華やぎ
高齢であっても、元気で自分の仕事ができることはだれもの憧れだ。吉川さんは清々しく、さらりとそれを実践している。
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